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東京地方裁判所 平成5年(ワ)16941号 判決

原告

志賀道雄

右訴訟代理人弁護士

田中紘三

被告

本田技研工業株式会社

右代表者代表取締役

川本信彦

右訴訟代理人弁護士

大矢勝美

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

一  被告は、原告に対し、金三三〇二万八〇二八円及びこれに対する平成三年六月二〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用の被告の負担及び仮執行宣言

第二事案の概要

一  本件は、原告が被告の狭山工場で勤務中、石鹸液の入った一八リットルのブリキ缶を運ぶ途中、階段から転落して傷害を受けたことから、被告の安全配慮義務違反を理由に、被告を相手に損害賠償を請求した事案である。

二  争いのない事実

1  当事者の関係

(1) 被告は、自動車の製造販売等を業とする会社であり、埼玉県狭山市(町名等略)に埼玉製作所狭山工場(以下「本件工場」という。)を有する。

(2) 原告は、平成二年一二月に、最長一年間の期間従業員として被告に雇用され、本件工場の化成課に配属されて、自動車のドアーに緩衝材であるクッションラバーをはめ込む作業に従事していた。なお、クッションラバーを穴にねじ込むために塗布する潤滑材として石鹸水が使用されていた。

2  本件事故の発生

事故の日時 平成三年六月一九日昼ころ

事故の場所 本件工場内の二階から上部に通じる階段(以下「本件階段」という。)

事故の態様 原告が、業務として、一人で石鹸液の入った一八リットルのブリキ缶(以下「本件缶」という。)を二階の保管場所から上部の作業場所まで運ぶ途中、本件階段において転落した。

三  本件の争点

1  被告の責任

本件事故についての被告の責任の有無が本件の最大の争点であり、これに関しては本件事故の原因と被告の安全配慮義務違反が問題となる。

(一) 原告

本件階段はスチール製勾配四二度の直線型のものであり、踊り場がなく転落事故があると重大な傷害の生じるおそれのあるものである。しかも、原告及び他の作業員が、金属とゴムの摩擦係数が最小となるように成分調整された石鹸水を軍手や安全靴に付着したまま本件階段を昇降することにより、階段の踏み面や手すりに石鹸水が付着し、滑りやすくなっていた。しかるに、被告が滑り止め材を張りつける等の措置を採らなかった上に、照明が十分でないため、原告は、休憩時間中に急いで本件缶を運搬したことから、足を滑らせ、又は身体のバランスを崩して転倒した。また、被告が階段の対面側の壁面に緩衝材を張りつける等の措置を講じなかったため、転落後、同壁面に衝突して傷害を増大させた。

本件缶は一八キログラム以上ある重量物であり、これを階段で運搬することは、原告の非定常的業務であって、身体のバランスを崩しやすいものである。また、原告の軍手や安全靴には、前記のとおり石鹸が付着しており、このため、重い荷物を持って階段を昇降することは特に危険である。そこで、被告は、他の重量物運搬に熟練した作業員に本件缶を運ばせたり、昇降器を用いる等して、原告にこれを運ばせるべきではなかった。仮に原告にこれを運搬させるとしても、本件階段を緩やかな勾配にする等バランスを失っても転落しない構造としたり、休憩時間帯ではなくゆとりのある時間に運搬させるべきであった。

(二) 被告

本件事故は、原告が、休憩時間の五分前に、本件缶を運搬した際、不注意に足のつま先だけを階段に掛けたためバランスを崩して、おしりから落ちたものであり、階段の対面側の壁面には衝突していない。

本件缶は、重量物ではなく、これを運搬することは原告に課せられた通常の作業である。

被告は、原告には安全靴を履かせ、また、階段にすべりどめが施されていた。本件階段やその手すりに石鹸水が付着することはない。本件階段は、高さが三・六メートルであって法律上踊り場を設置する義務はなく、また、その中間は七八ルックスであって明るさは保たれている。

2  原告の損害額

(一) 原告

原告は、本件事故により、外傷性腰椎椎間板ヘルニアの傷害を受け、事故当日から平成五年五月一〇日まで入通院治療を受けたが(入院日数二一〇日)、後遺障害別等級表七級四号の後遺障害を残し、このため次の損害を被った。

(1) 治療関係費 二五万二〇〇〇円

二一〇日分の入院雑費である。

(2) 逸失利益 四四九二万三〇七一円

原告は本件事故当時満三六歳であり、三一年間就労が可能であるところ、前記後遺障害のため労働能力が五六パーセント喪失した。年齢別賃金センサスの月収三六万二九〇〇円を基礎に、新ホフマン方式により逸失利益を算定すると、右金額となる。

(3) 慰謝料 一〇九二万円

入通院慰謝料として二四二万円、後遺症慰謝料として八五〇万円が相当である。

以上合計五六〇九万五〇七一円から、労災特別支給金一五九万円及び障害年金(年額一一六万五九〇〇円)の新ホフマン方式による現在額二一四七万七〇四三円の合計二三〇六万七〇四三円を控除した三三〇二万八〇八二円及びこれに対する本件事故翌日からの遅延損害金の支払いを求める。

(二) 被告は、右損害の額を争う。

3  過失相殺

仮に、被告に何らかの安全配慮義務違反があるとしても、被告は、本件事放の主な原因は原告の不注意にあるとして、九五パーセントの過失相殺を主張する。

第三争点に対する判断

一1(証拠・人証略)に前示争いのない事実を総合すると、次の事実が認められる。

(1)  原告は、平成二年一二月一〇日に、職種を「自動車製造に伴なう諸作業(組立、溶接、プレス、プラスチック等)」、契約期間を三カ月、最長一年間までの期間延長可能とする期間従業員として被告に雇用され、本件工場の化成課に配属されて、工場内二階メザニン(二階と三階の中間位にある階)の作業場で、自動車のドアーに緩衝材であるクッションラバーをはめ込む作業に従事した。被告から配給された軍手や安全靴を着用して同作業に従事したが、同作業には、クッションラバーを穴にねじ込むための潤滑材として石鹸水を使用するため、作業標準の中に一週間に一度ほど、一人で本件缶を二階の保管場所から上部の作業場所まで運ぶ作業も含まれていた。原告の作業工程上、原告が本件缶を運搬することが可能なのは、昼時又は作業終了前の五分間にコンベアが止まる時である。被告の工場では、原告以外の従業員も石鹸液やシンナーを使用するところ、各人がそれらの入ったブリキ缶を運搬する業務を行っており、ブリキ缶運搬のための特別の要員は準備されていなかった。原告が運搬する本件缶は、石鹸液が一八リットル入ったもので、蓋が閉められており、全体の重さが一九・一キログラムある。幅一センチメートル強の硬質ビニールテープにより十字に縛りつけられており、原告は、本件事故のあった時もその紐を掴んで運搬していた。

なお、原告の作業過程では、クッションラバーを石鹸水に浸すときに石鹸水が外に漏れて靴、軍手、床を濡らすことはあり得るが、車両の扉に装着するときはクッションラバーは乾燥している必要があり、また、軍手が濡れている場合は、車両に手形を残すことから乾燥したものに取り替える必要がある。さらに、原告が従事する作業場の床には太い金網状のエキスパンド・メタルが張っていて、床に石鹸水がこぼれても、エキスパンド・メタルの目の間から下に落ちて、床面には溜まらない。

(2)  本件階段は幅が九〇センチメートル、高さが三・六メートルのスチール製直線型のものであり、踏み面二二センチメートル、蹴上げ二〇センチメートルの段が一八段あって、その勾配は四二度である。途中に踊り場はないが、高さ一メートルのスチールパイプ製の手すりが両側に設置されている。また、踏み面は、縞板鋼板製で、斜めの格子縞模様が浮き上がっていて、滑り止めの役目を果たし、その端には四本のレール状の滑り止めが付いている。階段の途中には「足元に注意」との表示がされ、三週間に一度は乾拭きが実施されている。階段下には汚れ落としマットが設置されており、階段下の対面には一・二メートル隔てて鉄製の壁がある。階段の照度はその中ほどで七八ルックスである。

安全靴の底は、硬質ゴム製で、登山靴のような彫りがあり、すべり止めの役目を果たしている。

(3)  原告は、事故当日、昼休みの終了後、流れ作業のコンベアが動きだす前の五分間を利用して、本件缶を二階の保管場所に取りに行った。当日、寝不足ということもなく、特にあせりや油断はなく、さらには、疲労感から集中力が鈍ったということもなかった。事故当日は、手すりに石鹸水の付着により滑りやすくなっていたということもなく、また、原告は、靴の底が特に滑りやすいと感じたこともなかった。その他、事故当日、階段について特に異常は感じなかった。

原告は、本件缶を持って本件階段を上る時、足元に注意し、踏み面にきちんと足を乗せながら進行したが、その途中で落下した。原告の感触では、「バランスを崩し、重心の位置が本件缶の方向に移動し、缶の落ちる方向に身体が持って行かれたようにして落下した。手すりにはしがみついていたが、バランスを崩したため、自分では制御できない状況となり、また、本件缶をしっかり握っていたことから手から外れず、本件缶と一緒に体が真後ろに転倒した。転倒の際、手が滑ったようである」とのことである。なお、転倒後、本件缶は変形したが、石鹸水は漏れなかった。

原告は、本件事故後、被告の担当者の問いに対し事故の原因を正確に伝えた。

(4)  本件工場内には本件階段と同一規格の階段が多数存在するが、本件工場が昭和六〇年に稼働を始めて以来、被告の従業員が物の運搬中等に階段から転落して怪我をしたのは本件事故が初めてである。また、本件事故前に一八リットル缶を運搬中に事故が発生したこともない。さらに、原告は、本件事故前は、階段で滑ったことは一度もなく、手すりも滑りやすいと感じたこともなかった。このようなことから、原告や他の同僚から被告に安全対策を提案したこともなかった。

被告は、原告に対し、採用時点、配属後一週間目、一カ月目、二カ月目、六カ月目において安全教育を施し、安全のためのポイントを説明し、また、「安全なくして生産なし」の小冊子を配付している。

以上の事実が認められ、原告本人の供述のうち、右認定に反する部分は、前掲各証拠に照らし、採用しない。

2 本件事故の態様について、原告は、本人尋問において、「自分は左利きなので右手で本件缶を持ち、左手で手すりを掴んで階段を上った。下から一〇段目位のところで落下した。足を滑らせて転倒したのではないことは確実であるが、どうしてバランスを崩したのかその理由は思い出せない。右足が上がったときに滑ったような気がして、転倒したと思われる。落下後壁に身体をぶっつけた。会社の担当者には、バランスを崩して滑り、左手で身体を支えようとしたが、滑って転倒したと説明した。」と供述する。

他方、(人証略)は、「原告は、本件事故の様子につき平野等被告の担当者に対し、本件缶を左手に持ち、右手で手すりに掴まりながら階段を上る途中に足を踏み外し、バランスを崩しておしりから落ちた。段数はよく分からないが下から五、六段目である。階段下のフロアーに落ちたが、その際、よく分からないが壁には当たっていないと説明し、転落の原因について、手や足が滑ったとは言っていない。」と供述し、(証拠略)はこれに沿い、かつ、原告本人は、(証拠略)を読んだ上で、これに捺印している(原告本人尋問により認める。)。

3 右認定事実等によれば、原告が階段から転落した直接の原因は、階段を上る途中にバランスを崩したことにあると認められる。そして、原告がバランスを崩した原因として、〈1〉原告は、本人尋問において、手すりを持っていた手が滑り、このためバランスを崩した、又は、右足を上げた時に足を滑べらせたのが落下の原因であるかの如き供述をする。また、〈2〉前示のとおり(人証略)は、原告の説明によれば、足を踏み外したために落下したと供述する。さらに、〈3〉事故の態様からして、本件缶が原告の身体の後方にあったために重心が後方にずれたことなどが考えられる。このうち、〈1〉については、原告の供述自身あいまいである上に、前認定のとおり、本件階段の踏み面や手すりは滑りやすいことはなかったこと、バランスを崩した結果、重心の位置が本件缶の方向に移動し、手すりにしがみついていた手が、重心の移動のため制御できない状況となり、滑ったものとみるのが合理的であることから採用することができない。〈2〉の足を踏み外したこと又は〈3〉の持ち方が原因であると推認するのが適当である。なお、本件缶を持っていた手や転落位置については、本件証拠上、相反するものがあるが、いずれを採用しても、被告の責任の有無を判断するに当たっては、差異を生じない。

二 以上の認定事実に基づき被告の責任を検討する。

1  まず、階段の構造について検討すると、前認定の事実によれば、本件階段は、勾配四二度、高さ三・六メートルのものであり、その勾配は一般に用いられている三六・八度に比してやや急ではあるが、日本家屋の階段の傾斜角度の八四パーセント以上が四五度以上であることに比し、緩傾斜であること(証拠略)、前示の踏み面に施されたすべりどめの措置、手すりの構造や過去において階段事故がなかったことに照らすと、勾配や高さといった本件階段の構造上は、特に欠陥のあるものということができない。また、階段の照度は、その中間で七八ルックスであって、暗いものということもできない。

原告は、本件階段に石鹸水が付着して滑りやすくなっていたと主張するが、前認定のとおり、本件階段の踏み面や手すりについては、日頃から滑りやすいとの訴えはなく、事故当日も滑りやすいことはなかったのであり、右主張は認められない。そうすると、被告において、踏み面の格子縞模様やその端のレール状の滑り止め以外に滑り止め材を張りつける等の措置を採る必要はなかったものということができる。

なお、原告が本件階段落下後、対面にある鉄製の壁に衝突したかどうかについては、原告の前示供述以外に証拠はなく、これに反する前示各証拠もあって、直ちには認め難いところではあるが、仮にそのような事実があったとしても、階段下と対面の鉄の壁との間には一・二メートルの距離があり、通常の階段の使用において狭いものということができず、構造上の欠陥があるものとは認め難く、被告には、階段を落下する者がいることを予想して、階段の対面側の壁面に緩衝材を張りつける等の措置を講じるべき法律上の義務はないというべきである。

2  次に、原告は、本件缶は一八キログラム以上ある重量物である上に、一週間に一度の非定常的業務であることから、これを階段で運搬することは身体のバランスを崩しやすく、他の重量物運搬に熟練した作業員に本件缶を運ばせたり、昇降器を用いる等して、原告にこれを運ばせるべきではなかったと主張する。しかし、本件缶は重さが一九・一キログラムであって、石油用一八リットル入りポリ容器に石油を満杯に入れた重量と大差ななく、この程度の重量及び容量のものならば、通常の主婦でも階段を運搬することができるものあり、特に重いものとは言えないことから、本件階段を上って本件缶を原告に運搬させること自体は、安全配慮義務に違反するということができない。なるほど、右運搬業務は一週間に一度の非定常的なものであるが、原告は本件事故に遭うまでの約半年間何らの問題もなくこの業務を行ってきたのであるから、非定常的業務であるからといって、特に危険が増すものということができない。また、原告は、事故当日、安全靴の底が特に滑りやすいと感じたことはなかったのであって、同靴には石鹸が付着していたと認めるのは困難であるし、原告は、休憩時間後に本件缶を運搬したのであるから、石鹸水で濡れた軍手を用いたものとは認め難く、さらに、手すりが滑りやすいと感じていなかったのであるから、原告が軍手や安全靴を着用して本件缶を持って階段を昇降することが危険であると認めることも困難である。

また、本件階段の勾配も前認定判断のとおり、特段問題のあるものではないことから、被告には、本件缶を持って昇降する従業員のため本件階段を緩やかな勾配にしなければならない義務も存在しない。

3  さらに、本件事故当時原告には特にあせりや油断はなく、疲労感から集中力が鈍ったということもなかったのであるから、休憩時間とコンベア稼働の間の時間帯に本件缶を運搬させたことをもって、被告に安全配慮義務の違反があるということができない。

その他、被告は、原告に対し定期的に安全教育を施してきたのであり、被告は原告に対する安全配慮義務を履行してきたものというべきである。

4  以上のとおり、本件階段に構造上の欠陥があったり、被告に何らかの安全配慮義務があり、これらの欠陥又は義務違反の結果、本件事故が生じたものということができない。

第四結論

そうすると、原告の本件請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がないから、これを棄却することとする。

(裁判官 南敏文)

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